東京高等裁判所 昭和36年(ネ)976号 判決 1963年3月11日
控訴人 多摩中央運送株式会社
訴訟代理人 菊地政
被控訴人 国
訴訟代理人 川本権祐 外二名
主文
本件控訴を棄却する。
控訴費用は控訴人の負担とする。
事 実 <省略>
理由
当裁判所は、当審における新たな証拠調の結果を参酌しても、なお、次の付加訂正をなすほかは、原判決が詳細説示するところ、と同じ理由により、控訴人の本訴請求を失当と判断するから、右説示の記載をここに引用する。付加訂正する点は、次の一ないし三のとおりである。
一、原判決理由中、記録三四丁表末行「証人中村長次の証言」を「原審及び当審証人中村長次の証言」に、同三五丁裏八行目「残業手当の給与」を「班長手当の給与」に、同三六丁表八行目「二七五日」を「二七七日」に、同所九行目「二七五」を「二七七」に、同所同行目「一五一、〇〇八円」を「一五二、一〇六円」に、同三七丁裏末行「一、〇四五、〇八〇円」を「一、〇四五、二八〇円」に、同三八丁表一、二行目「一、二六二、八六七円」を「一、二六三、九六五円」に、それぞれ改め、なお同じく記録三八丁裏二、三行目「別表療養給付欄」の下に「(本判決事実摘示において示したとおり一部誤記訂正する。)」を加える。
二、当審における控訴会社代表者関谷与司夫の供述中には、本件事故の原因として運転者長田豊の過失や自動車の故障などは存せず、被害者中村長次に過失があつた旨の控訴人の主張に符合する部分があるけれども、これは、原審証人藤本武敏の証言により真正に成立したものと認める乙第五号証ないし第八号証並びに同証人、原審証人長田豊、原審及び当審証人中村長次の各証言に照らし、信用できず、他に控訴人の右主張事実を認めるべき証拠はない。
三、原判決理由中、記録四〇丁裏三行目から四一丁表二行目にかけての説示を次のとおり改める。
また、中村が昭和三十三年三月十日の損害賠償請求権放棄当時まだ被控訴人に移転していなかつた賠償請求権についても、前記事実によれば、中村は、政府より保険給付を受けられることを前提として、それによつては補填されない損害の賠償請求につき控訴人及び長田と示談したものとも解せられるから、政府の保険給付と同時に法律上当然政府に移転すべき損害賠償請求権についてまでその請求権を放棄したものと解することには、すこぶる疑問がある。
のみならず、仮にその部分についても中村において控訴人及び長田に対する損害賠償請求権を放棄したものとしても、中村が政府より労働者災害補償保険法による保険給付を受ける以前に、賠償義務者たる控訴人に対し、本件自動車事故に基く損害賠償請求権を放棄した行為は、その効力を被控訴人に対抗できないものというべきである。けだし、権利を放棄することは、原則として、権利者の自由であるけれども、これによつて第三者に不当の不利益を与えることは、許されないからである。民法第三百九十八条は、「地上権又ハ永小作権ヲ低当ト為シタル者カ其権利ヲ放棄シタルモ之ヲ以テ抵当権者ニ対抗スルコトヲ得ス」と規定しているが、これは右の趣旨を示した当然の規定であつて、この趣旨は、明文の規定のない場合にも類推ないし拡張しなければならない。すなわち、債権の放棄たる債務免除に関しては、民法は、第五百十九条になんらの制限を設けず、わずかに、債権が差し押えられ又は質権の目的となつている場合には、第四百八十一条又は第三百六十七条の規定に基き、当該差押又は質権の効力として免除の効果が制限されるというにとどまり、債権放棄についての一般的制限を規定しないけれども、右第三百八十九条の趣旨を類推し、債権が第三者の権利の目的となつているときは、債権放棄をもつて該第三者に対抗できないと解するのが相当である。そして、さらに、第三者が当該債権そのものの上に現実に又は直接に権利を有しなくても、その債権の存続につき正当の利益を有する場合には、右の趣旨を拡張し、その放棄をもつて該第三者に対抗できないと解すべきである。これを第三者の行為によつて業務上の災害を受けた労働者の該第三者に対する損害賠償請求権についてみるに、政府は、その災害につき労働者災害補償保険法により被害労働者に対し保険給付義務を負う反面、保険給付をなすと同時に同法第二十条によりその給付の価額の限度で、なんらの意思表示をも要せず法律上当然に、その者が第三者に対して有する損害賠償請求権を取得する。それは一面においては政府の損失を補填するとともに他面においては損害賠償義務を負う者が政府の損失において不当に義務を免かれることを防止する作用を有するものであるから、政府が保険給付により賠償義務者に対する請求権を取得する法律上の地位は、その実質において求償権と同視せらるべきものであり、保険給付をなす前においても、将来の保険給付義務履行を条件として賠償請求権を取得すべき期待権は将来の求償権と同様法律上保護せらるべきものである。従つて、たとえ政府以外の第三者だけで損害賠償請求権を消滅させることにより政府の右期持権を消滅させるような意思表示をしても、政府の保険給付義務が消滅しない限りその効力を政府に対抗することはできないものと解する。
そして被害労働者が第三者に対する損害賠償請求権を放棄した場合でも、政府は労働者災害補償保険法に基く保険給付義務は消滅しないのであつて、これは労働者の保護ということを直接の目的とし、その業務上の災害を当事者間の問題として放置しておくわけにはいかないという同法の趣旨に基くもので、純然たる私的事業としての商法上の保険の場合とは異るところである。そうすると、政府は、第三者の行為によつて生じた労働者の業務上の災害につき現実に保険給付をする以前においても、なお、同法第二十条に基き保険給付をした際に取得すべき該労働者の第三者に対する損害賠償請求権の存続について、正当の利益を有することになるから、該労働者がその損害賠償請求権を放棄することは、政府の正当な利益を害するものである。したがつて、中村の前記損害賠償請求権の放棄は、被控訴人に対抗することができない。
以上のとおりであつて、控訴人の本訴請求を棄却した原判決は相当であるから、民事訴訟法第三百八十四条、第九十五条、第八十九条に従い、主文のとおり判決する。
(裁判官 小沢文雄 中田秀慧 賀集唱)